プロフィール

はじめに

はじめに

ピースフルマインドセラピストの知花和幸(ちはなわこ)です。

私は20代後半で臨死体験をしました。

この圧倒的な経験から

私の細胞の中に「生きる」という思いが残ったのです。

ただ、なんとなく生きていた私から、生きている時にこれが幸せだと思える人生を生きたい、そう思うようになりました。

平和なこころで幸せを感じながら自分らしく生きること、 

もしそれを阻むものがあるのなら、もとの平和なこころにもどる。

そんなことが出来ると思っています。

 アダルトチルドレン、HSP傾向がある、心の状態が体に現れている、

 罪悪感でさいなまれていたり、恐怖感、不安感の中にいるのなら、

あなたの心と魂が、自ら安心感を生み出して自信をもって人生の選択ができる、

そんなひと(魂)になっていけるように、全力でサポートします。

相性が合うかどうかが重要な要素だと思っています。

それをご自身で感じて頂けるように、私がどんなふうに悩んで、

それを乗り越えてセラピストになっていったのか

詳しい内容はプロフィールを読んで頂けると嬉しいです。

 

【略歴】

家族のために役に立ちたかった子ども時代

敏感で繊細な小学生時代

・激症肝炎 助かる確率は20~30%。助かっても後遺症が残ります

・臨死体験

・私の細胞の中に「生きる」という思いが残った

・息子の病気 今夜が山です覚悟してください

・最愛の父の死

・息子の病気から自然療法を学びはじめる

・心療内科 薬の副反応で狂ったように階段を上ったり下がったり

・息子の失踪

・命をかけて 回復への道のり

・奇跡は起きる

・自ら安心感を生み出せるように

 

 

【詳しいプロフィール】

 

大人しくて内向的な幼少期

経営者の父と母、4人姉妹の長女として育てられました。

父は貧しい農家の出で高等小学校しか出ていません。

小学校の用務員のような仕事もこなして卒業したそうです。

卒業後は丁稚奉公をして主人に認められ、

のれん分けしてもらって独立。

小さな商店を開いて、最初はミカン箱を机に、母も一緒に手伝ったそうです。

そんな家庭でわたしの人生が始まりました。

父は努力家で真面目に生きて仏様みたいな人と、よそのひとから言われていました。

小さい頃から父には叱られた記憶がないのです。すごく遊んでもらった記憶も少ないのです。

いつも寡黙で、仕事場にいたので父との思い出が少なく寂しく感じることがありました。

父は真面目に働いて商才があったのでしょう、

誰もやっていなかった素材を見つけて新しい分野を開拓して、

認められ信用され、商店から株式会社に大きくしていきました。

仕事一途だったので家族と一緒にいる時間は短かったです。

 

 

ー家族のために役に立ちたかった子ども時代ー

父が幸せだったのか、いつもそれを考えると切なく寂しい感覚に襲われます。

母は子育て専門のように、家庭を守るという暮らしでした。

ひと昔前の常識では男は働いて、女は家庭を守る、それが当たり前の普通の家庭でした。

優しい父でしたが、母は父の事を夫としては不服だと漏らすとき、私は母の話を聞いてあげていました。

寂しそうな母を幸せにしたくて役に立ちたくて、でも出来なくて胸を痛めるようなところがありました。

家族のことは大好きだったけれど、自分がアダルトチルドレンだと気づいたのは大人になってからでした。

 

ー2才のころ、交通事故に遭うが危機一髪で助かるー

両親が商売をしていた店の前で遊んでいたのに、どういう弾みか?道路にでて牛車にひかれそうになりました。

間一髪で自転車に乗っていた人が私を蹴って車輪と車輪の間に上手く滑り込ませてくれた。

私はショックで失禁し意識を失って、病院に運ばれて怪我の処置をしてもらって無事意識が戻ったそうです。

私を蹴ってくれた人は命の恩人と両親から聞きました。

この時、わたしを蹴ってくれた人がいなかったら、今、ここに私はいないでしょう。

生かされたということに気づいて、この命をどう使うかと思ったのは大人になってからでした。

 

ー妹が生まれて、2才で家出したわたしー

妹ができたのは2才9か月の時、私は寂しかったのでしょう。家出をしたのです。

祖母の家に行って何日も家に帰りませんでした。

母が妹の世話ばかりして、愛情を独り占めしているように感じて自分はいらない子だと思ったのです。

自分は価値がないという思い込みが生まれたのはこの頃かもしれません。

自分は価値がない。邪魔な存在だ。存在してはいけない。無意識にそんな信念が芽生えたかもしれません。

母が迎えに来て「家に帰ってきて」と泣きながら言っていた場面が思い浮かびます。

そんなに小さなころのことなのに、なぜか記憶があるのです。

わたしはやっと自分に気持ちを向けてくれたことが嬉しかったのです。

小さい頃は大人しくて人見知り、買い物に行く母についていって、

近所の人に会うと母の後ろに隠れるような子どもでした。

 

ー妹たちがつぎつぎ生まれて、お姉ちゃんとして育てられるー

妹たちのことは好きだった。守ってあげたくて、母親のようにふるまいたかった。

妹のことをけなすひとがいたら腹がたった。

 

自分は褒められなくても、妹がほめられると嬉しかった。

自分が褒められて、妹がけなされると腹がたった。

 

この感覚は不思議だけど今でもあります。

とても母性の強い子どもだったと思います。

 

けれど、

姉妹喧嘩をすると、お姉ちゃんなのにと、だいたい自分が叱られました。

なぜ、自分の想いは伝わらないのだろうと理不尽に思うことが多かったです。

口答えするも叱られて、泣くこともできず固まってしまっていました。

 

このときから、自分の主張は通らないものと思い込むようになりました。

わたしの考えは価値がない。自分で考えてはいけない。

すねて、ひがんで、扱いにくい子だったかもしれません。

 

そんな私でも家族のことは好きでした。

父と母の年が離れていて、父が年寄りだと感じていたので、

すぐに死んでしまうのではないかと、思ことがたびたびありました。

それはとても怖いことでした。

 

父が、母が、二人が喜ぶことをしたいと思っていたのに、うまく表現できなくて。

家族の幸せが自分にかかっているように、勝手に思い込んでいた幼子でした。

 

両親を喜ばせなければいけない。そうでないと価値がない。見捨てられる。

そんな気持ちが自然と生まれたのかもしれません。

 

ーどんなふうに人と繋がるのか、分からなかった幼少時代ー

5歳になったころ幼稚園に入園しました。

けれどなじめなくて担任の先生が幼稚園から私を自宅まで連れて帰るということが度々ありました。

集団生活になじめなかったようです。

 

園庭でじーっと一人で佇んでいて何もしない、動かない、そんな子供だったので、

いてもしようがないと自宅へ帰される日々。

 

となりのクラスの先生はわたしがみんなの遊びの中に入って来られるように、

声をかけてくれて、そんな時は嬉しくてはにかみながら先生のいう方に行って砂場遊びをしました。

ただそれだけで、嬉しかったのです。

 

担任の先生はほったらかしでした。

けれど、どういうわけか、母が迎えに来ると、その時だけ満面の笑みを私に向けて優しく声をかけました。

その先生の言動が普段と一致しないので、子ども心にとても不思議でした。

 

大人ってこんなに態度が違うのだと認識した衝撃の場面は今でも覚えています。

 

大人しいけれど、人間観察はしていて人の言動に敏感な子どもでした。

集団になじめなかったけれど、その中に入りたく思っていたのは確かなのですが、

この敏感さが辛くしていたのかもしれません。

 

敏感で繊細な小学生時代―

 

小学生1年で近所の市立小学校へ上がりましたが学校になじめませんでした。

運動会が終わったころ、国語の時間に詩を書く課題がだされました。

 

表現すること、詩を書くということが理解できなかった私は、

運動会の紅白の玉入れの様子をそのまま言葉にして提出しました。

 

赤い玉、入れた。白い玉飛んで、入った。みたいな感じで見たままを言葉にして。

そこだけ、はっきりと覚えています。

 

どうしてよいか分からず、文字を書けば良いという感じで何も考えずに書きなぐりました。

後日、その詩が返されるとき、先生は始めにみんなの前で言いました。

 

このクラスの中で自分で書いていない人がいます。って。

とてもよくできた詩です。読みますと言って読んだのが私の詩!でした。

 

誰だろう?と思っていたからビックリしました。

私?なんで?国語の時間に書いて出したのに。

 

苦しくても書いたよ!自分で、ここで、教室で書いたのに、なんでそんなことを言うの?

って、こころの中は混乱でいっぱい。

でも、なにも口から発することはできなかった。

 

とてもよくできた詩、というのもびっくりでした。

あんなに投げやりで書いて出したものがよくできた詩だったんだ!と、いう思いと、

まるで罪びとのように扱われたことは、今思い出しても胸が痛くなるような経験でした。

 

自分をかばう術を持たなかった小さな私。

ごめんねと声をかけると泣きそうになっている小さな女の子が浮かびます。

 

そのせいもあったのかもしれませんが、母の希望で私立の小学校へ転校、

このころが一番のびのびしていました。

 

ー空想好きな少女時代ー

自分とはなに?わたしってなんだろうと考えるくせがあった。

自分のこころを、とっても不思議なものとしてとらえていました。

 

ー中学受験をして私立の中高一貫校へ進学ー

穏やかな時代で積極的に委員をしたり、部活に励みました。

 

楽しい時代でしたが、なぜだか、虚しさを感じることがありました。

中学生の頃は反抗期で、ひどい言葉で母を傷つけたのでしょう。

母から「出ていって」と言われてお金を机の上に置かれてしまいました。

大好きな母に嫌われたら、

家を出て行ったら生きていけないと思って固まってしまいました。

母から見放されたら生きていけない、見捨てられる不安で胸がつぶされそうな思い

叱られると、自分が悪いと思って飲み込んで我慢する。

見捨てられないために、そんなクセが知らない間についていたのかもしれません。

 

ー激症肝炎 助かる確率は20~30%。助かっても後遺症が残りますー

婚約をする。にもかかわらず、生死をさまよう大病をしました。

母が医師からつたえられた言葉は「激症肝炎かもしれません。これから症状が酷くなるかもしれないので、覚悟しておいてください」

これは、助かる確率は20~30%。助かっても後遺症が残る病気、症状ということ。

 

母は「あんた、激症肝炎かもしれんねんて。なんや、激しそうな名前やなあ」

「面会謝絶」のまま、のたうち回るような苦しみを1週間ほどしたのか、意識が朦朧として、生死をさまよいました。

 

臨死体験ー

症状も激しく、苦しくてとても怖かった。

その苦しみの中から夢のような場面へ、

周りがお花畑で、空は清々しく空気は澄んでいて透明だ。

その中を電車のようなものに乗って運ばれているわたしがいる。

中からお花畑を眺めているわたし。綺麗だな~ 気持ちいいな~ 

暫くして、降りるときがきた。到着したところは、山のふもとのようなところ。

そこに、黒いスタンドカラーの服のひとが立っていた。顔は見えなかった。

これから頂上へ上りましょうと私に手を差し伸べたようだけれど、わたしは断ったのです。

そして私を呼ぶ声で目が覚めました。

意識が戻った時でした。

症状は楽になっていました。

不思議な夢のような体験をしましたが、それが「臨死体験」だったということを知ったのは後年、

立花隆さんの「臨死体験」という本を読んだときでした。

あの不思議な夢は臨死体験だったのだと、腑に落ちました。

それだけではありませんでした。

 

ー覚醒 圧倒的な光あふれるものに包まれるー  

不思議な夢のあと、目が覚めてから、ベッドの上で、圧倒的な光あふれるものに、包まれました。

光に包まれて、自分の中からもあふれていて、

言葉では表現できないような圧倒的な感覚に包まれていました。

 

言葉をさがすなら、愛で満たされた世界とか、愛が溢れる思いとか、圧倒的な至福感。

ぜったい、神様はそこにいると思えたから周りを見回して探したのです。

姿は見えなかったけれど圧倒的なものに包まれて、他人も自分もない、

すべてがひとつになったような感覚に包まれていました。

完治ー

何ももたない、わたし。病気で人の世話にならないと生きていけないわたし。

病室のベッドの上でただ横たわっているだけの人なのに、至福感でみたされている。

この時から、私は回復していき全快したのです。

 

ー私の細胞の中に「生きる」という思いが残ったー

 

病院の先生や看護師さん、父のお百度参り、母の献身的な看護。

周りの私に対する祈りの気持ち。

それらがすべて私の命を生かしたのだと思う。

私の細胞の中に「生きる」という思いが残った。

 

この時の経験がのちにセラピストとしての原点になりました。

 

 

結婚生活と子育て、挫折―

病気の快復後、結婚して上京。一姫二太郎、子どもを授かり子育てに専念する。

この子育てで大きな挫折を経験しました。

 

まず、娘が2歳のころ、私は喘息が度々発症することがありました。

ある晩、夜中に喘息が止まらなくなって、夫に病院につれていってもらって急遽、入院することになりました。

娘はよく眠っていたのと、わたしが一人で歩けないほど喘息が酷く不安に襲われていたため、娘をひとり家に置いていくことになってしまった。

わたしが病院で処置を受け、落ち着いたのをみて、夫が自宅へ帰ったのは明け方になってしまっていた。

帰ったところ、家じゅうの部屋の扉という扉が開け放たれて、その中で、娘が呆然としていました。

夜中にひとりおいていかれて、目が覚めていつも一緒に寝ている両親の姿がなかったので、どんなにか怖かったことでしょう。

家じゅうの部屋から部屋へと扉を開けて探し回った時の気持ちを考えると可哀そうなことをしたと、後悔の念で胸がつぶされそうになりました。

 

自分のエゴで、息ができない恐怖で夫を自分の側に引き留めてしまって、

娘の恐怖を考えられない自分が情けなかった。

あの時、夫に娘を抱っこしてもらって、一緒に家族で病院に行けば良かったのだ。

どんなにか、不安だったことだろう、怖かっただろうと、今でも胸が痛む。

娘はそれからというもの、夜のお月さまを怖がった。

後年、娘と話していて気づいたのですが、娘にも見捨てられ不安があることが分りました。

見捨てられ不安を、このとき作ってしまったのだと思う。

愛しい娘の心を傷つけてしまったことはどうしようもない後悔だった。

どんなに愛おしくても傷つけてしまう、トラウマを作ってしまうということ。

どんな人にでも起こり得ることかもしれません。

けれど、回復力はどんな人の中にもある。

 

 

ー息子の病気 今夜が山です覚悟してください―

息子が5か月の時、百日咳肺炎で入院。病気の感染源は夫でした。

もっと自分の身体の健康管理に注意を払ってほしいと責めるような気持になりました。

それでも、実際には言えなかった。

自分の気持ちを伝える努力をするようになったのは

アサーティブコミニケーション系の本を読むようになってからでした。

 

息子は治療薬でみるみる体温がなくなっていった。医療事故だったと思う。

痙攣をおこして、小さな手にもっていたプラスティックのおもちゃを噛んで目が白目になっていた。

それに気づいてナースコールを押した。

意識がない状態で検査だけをする病院側。

何が原因かと検査しているだけの病院の対応をただみる事しかできず、絶望感で打ちのめされる

早く治療してよ!早くこの子を助けて!!

検査をした後、脳のレントゲン画像を見て医師の言った言葉

「助かったとしても、普通の子どものようにはいかないでしょう」

 

意識のないまま大きな専門病院へ救急車で運ばれる。

転院先の病院では百日咳肺炎脳症という診断名がつき、今夜が山と言われる。

覚悟をする。

もし、最期なら、せめて腕の中でと思っては祈り一晩を傍について過ごす。

 

彼の生命力が彼を生かしてくれた。意識が戻った。

その後は健康を取り戻してすくすく育っていった。

医師の言った言葉に反するように、普通の子になっていた。

しかし、

この30年後にまた、覚悟しなくてはならことが起ころうとはこの時は思わなかった。

 

最愛の父の死―

 

父が末期癌と診断される。療養しながらも仕事に励む父。

診断されてからも1年は会社に通っていました。

自宅から歩いて5分で着けるところを1時間かけて一歩一歩、歩いて通った、そんな父の様子を母から聞くにつれ、胸が押しつぶされる思いでした。

そんな父もとうとう、歩けなくなった。

 

家で看取りたかった私の気持ちは通じず、父が自ら病院でと言い入院。

東京から毎週、病院へ通った。いつものように私が着いたその日。

「今日が最期や」と言って、本当にその日に亡くなりました。

入院して1か月でした。

 

ー父は幸せだったのだろうか?ー

一緒に楽しいことを共有した記憶は少ない。

それでも、父の笑顔が浮かぶから、楽しい顔も覚えている。

孫の相手をしてくれるとき、笑っていた。

家族を養うために懸命に働いた父。

そんな父も、病床では

「死んだら終わりや」そんなことを言っていた。

それは寂しすぎる。

 

生きているときに、これが幸せだって生きるのと、

死んだらおしまいと思って生きるのとすごく違う…

 

私が臨死体験をしたのち、経験した世界は誰にでもあるはず、、だと確信できたのだから。

生きている間、今の幸せを感じられて死ぬときは楽しかったといえる生き方はできないのだろうか。

そんな人を増やしたい、自分もそうでありたいと思うようになり、こころの世界へ踏み出した。

父の死をきっかけに、生き方を深く考えるようになっていった。

 

 

息子の病気から自然療法を学びはじめるー

息子にてんかんの症状が出始める。

小さい頃から、エネルギーが抜かれるということを訴えていました。

けれど、それが、なにか?分からなかったのです。

私の中で、その状態を改善する物はないかと探す旅が始まりました。

 

西洋医学ではない、なにか。副作用のない、なにか。

 

ホメオパシー療法の学校に4年在籍。最終仕上げとしてギリシャ、アロニソス島に約1か月滞在。

ホメオパシーの世界的権威、ジョージ・ヴィソルカス博士から直接講義、指導を受け、3日に亘る試験に合格。

卒業後は青山通りのサロンでホメオパスとしてコンサルテーションを担当。

サロンが閉じられるまで務めました。

 

 

鬱 発症―

娘が結婚して、結婚式の1週間後に家族写真が撮れていないことに気づいて愕然とする。

たかが写真、けれど自分にとって大事な証だったのでしょう。

家族写真を撮ってほしいと言えなかった自分が心底情けなかった。

 

またもや後悔、大切な思いを伝えられない自分への怒り、

欲しいものを欲しいと言えない自分が招いた結果だと、自分を責めた。

 

わたしはどうでもいいからと人を優先していたことに気づかされたのは後年になってからでした。

自分の気持ちを大切に扱っていたらこんなことにはならなかったでしょう。

人を優先する癖がついていたのです。

価値がない私は欲しがってはいけない。

この時はただ情けなく自分を責めていました。

このあたりから、身体が動けなくなる。

夫の会社の事務雑用をするため、会社へ通っていましたが、

それで精いっぱいで家では何もできなくて寝込んでしまったのです。

 

ー心療内科 薬の副反応で狂ったように階段を上ったり下がったりー

体じゅうが痛くて心療内科へ診断を受けに行ったこともありました。

心身症と診断されて薬が7日分でました。

効くかどうか試してみようと飲みましたが、

じっとしていると落ち着かないという反応が起きて、

始終体を動かしていないと気が狂いそうになりました。

 

家から飛び出して、近所の階段を上ったり下がったり、

ずーっと動いていないとおかしくなるのです。

これだったら、まだ、体が痛いことの方が我慢できると思って、

薬を飲むのをやめました。

この時から痛みを受け入れて過ごすようになりました。

 

ーこころと向き合う 回復への道のりー

精神と身体を癒すために、以前から通っていた断食と養生食のある施設へ行く。

そこで、「一時的な鬱です」と言われました。

 

この年になって初めて心と向き合うことになりました。

そこから本格的にこころの勉強を始めました。

こころの勉強だけでなく、副作用を起こさないものを探し求めました。

 

ー息子の失踪ー

息子にてんかん症状の大きな発作が起きる。

発作を抱えたまま家出する。数か月後に分かったことですが、

知り合いの家にいました。その後、知り合いと一緒に失踪して手がかりがなくなりました。

探し回る。

息子が家をでたことで、自分責めが始まる。

彼を理解していたつもりだったが、寄り添えていなかったのではないか、

もっとできることがあったはずと。

病気を抱えたままの状態での失踪だったので、神経は休まることはありませんでした。

洗脳やマインドコントロールの専門家にも相談し探し回りました。

 

ー命をかけて 回復への道のりー

5年後に、身体がボロボロになって帰ってくる。

精神状態が非常に悪い。栄養失調で脳委縮をおこしていた。

障害があることが分かる。

入院。HCUで治療。

大きな手術の提案。(体の形が変わるほどの)

本人は死んでも良いから退院したいと、

命綱の機械を引き抜いて病院を抜け出そうとした。

 

ー医療保護入院へー

精神科の閉鎖病棟へ保護するため転院。

この数か月は生涯で一番つらい時期でしたが

ただひたすら毎日、やれることをやり、祈り、目の前のことをやり、祈り

諦めず、ただ祈っては、目の前のことやり、通いきりました。

 

 

自分が心理学を学んでいなければ、そして体の叡智を信じていなければ乗り越えられなかったでしょう。

わたしたち家族は「息子の命を守るため」すべての決断と行動をしました。

 

ー奇跡は起きるー

病院の先生が私たち家族に手術の方法、説明をしようとしていた矢先、息子の体から、機械がポロリと落ちた。

空いた穴を閉じ、ほぼ毎日レントゲンを撮った。1週間しても悪化はなかった。

奇跡のようなできごとでした。

 

ひとの体はなにが起こるか分からない。

悪いことも、良いことも。

 

ー入院して4か月後、退院ー

今では体力もついて、元気に暮らしています。

彼の失踪と病は家族を再結成させられた出来事となりました。

こころの話を親子ですることも多く、一緒に旅行に行ったり、

綺麗な空を眺めて感動すると、呼びに来てくれて、一緒に写真を撮る。

そんな楽しい時間をしみじみ味わえるようになりました。

仲良しですねと言われることも度々。

どうなることかと危ぶまれた苦しみも、あれは何だったのかと思うようなできごととなっています。

 

ー尊重し合える家族としてー

娘の小さい頃に与えてしまったトラウマで罪悪感があったことも、わたしの投影だと気づいて

いまでは解消しました。

「ママのところに生まれてこれて幸せ」と言ってくれる娘に対して素直に受け取れる自分がいます。

家族がお互いに尊重しあえる関係でいられるのは、幸せなこと。

諦めなければ道は拓ける。

奇跡は起きる。

報われる思いを味わって今、幸せです。

 

ー体の症状とともにあった恐怖感もなくなったー

ストレスで呼吸が出来なくなる喘息も、いつのまにかなくなりました。

ちょっとした精神的な動揺でお腹が痛くなり、

死が迫っているほどの恐怖が襲ってくるパニックがありましたが、

それも起きなくなりました。

 

人生の経験と学びを統合したセッションをするようにー

体のことは医師でないから治療するということはできません。

ただ、こころとからだは力を合わせて、お互いを癒すことができるということは真実だと思っています。

大病をして、覚醒体験をしたこと。

息子の病気を家族で支え通して自己治癒力を最大に発揮できたこと。

祈りの力も治癒に大きく導いたことでしょう。

これらの経験から、今までより一層、ひとのこころとからだの癒す力を確信しました。

今では、これまで学んできた自然療法と覚醒体験で得た経験を統合したメッソドで

魂と一致した人生へと歩むきっかけになるようにサポートしています。

 

ー悩みの解決や望みを願えば、希望への扉は開かれるー

こころがしんどい、体がしんどい、

混乱してどうして良いかわからない

自分一人では無理、そんな時

頼れる人がいたら、道標があったら

どんなにか、ほっとすることでしょう。

 

わたしもたくさん迷いました。

ほっとしたかった。

だれかに助けてもらいたかった。

いくど、こころの中で「助けて!!」と叫んだことでしょう。

 

迷って、迷って、ひとりぼっちで寂しくて

心もとなくて、泣きそうになった

そんなとき、寄り添ってくれるひとがいたら

どんなにか、救われたでしょう。

 

諦めそうになっても

諦めてはいけないことがあります。

命をおろそかにすること、これだけは諦めてはいけません。

 

もし、誰かが、そんな状態で ひとりぼっちだと

途方にくれているなら

信頼できる人が思い当たらなかったら、

いや、思い当たる、けれど迷惑をかけてしまう、

心配をさせてしまうのではないかと

躊躇するなら、専門家に頼るのもひとつの道です。

 

わたしが辛かったときに、人を頼ったように、

 

 

安心してこころがほっとする。

こころとからだに優しく寄り添う専門家を目指そう。

そう思って歩んできました。

 

幸せな平和なこころと、身体を手に入れるために、癒しに関する勉強を始めて、

様々な自然療法、心理学や心理療法を学んで研究して、

実生活で実践していくなかで、今までの疑問が、謎が解けてきたのです。

固い信念や、思い込みに気づいてははらりと落ちていきました。

自分は価値がない、見捨てられる不安や、愛されていない、存在してはいけないのではないかなど、愛着障害を克服し、罪悪感も消えていきました。

そうしているうちに、自分というものを楽しめるようになってきたのです。

うん、わたしはこれでいいと思えるようになってきました。

 

ー自ら安心感を生み出せるようにー

こころの仕組みを知って実践するだけで、

こころとからだが整っていく。

それだけで、みずから安心感を生み出せるようになりました。

 

穏やかなこころと健やかな体で笑顔が広がる、そんな世界を一緒に作っていきませんか。

 

あるがままで満ち足りて

幸せな選択ができる自分へと変革を起こすように

変わりたいあなたを全力でサポートいたします。

 

 

ここまで、わたしの長いプロフィールを読んで下さって、ありがとうございます。

 

あなたと、ピースフルマインドセッション(カウンセリング)でお会いできることを、

楽しみにお待ちしております。

 

Peaceful Mind therapist(ピースフルマインドセラピスト。)

知花和幸(ちはな わこ)

 

 

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